其の雨の降らぬ嘆きの。

せかいをこわすためのなげきの。

そのあまのくだらぬなげきの。

少女が泣いている。
一面に広がっている、砂塵の中央にぺたりと座り込んで、ぐずぐずと泣き声を上げている。その周囲に飛び散っている血と、何かだったものの欠片と、もう何でもないものの欠片と。

少女は泣いている。
真っ黒に変色した人間の体を抱いて、泣いている。



何がいけなかったのだろうか。
少しばかり税が重すぎた。少しばかり刑罰が厳しすぎた。少しばかり兵役が重すぎた。そんな様々の組み合わせであったのだろうと思う。思うだけだ。分からない。
けれど、離宮の斎宮として在った姫の元に届いたのは、父王処刑の報と、自害のための短剣。
せめて、革命を起こした国民たちに、辱めを受けずに死ねという、母からの最期の贈り物だった。
その、きらきらと光る刃を何度も返して見て、それから姫は周囲を見渡した。
でももう、全てが遅い。
ごうごうと嵐のような音を立てて燃え広がる炎は、すでにこの宮のほとんど半分を焼こうとしている。熱風は肌を焼くように熱い。
姫が居所としていたのが宮の中心部である祀場から少しばかり離れていたことが幸いした。まだここまでは、火は来ない。
けれどそれも、きっと時間の問題なのだろうと、姫は短剣を弄びながら考えた。
どうしようか。
怒号を上げる逆賊達の声が聞こえる。すでに逆賊ではなく、革命政府の先遣隊と呼ぶが似合っているのだが、姫はそれを是としなかった。
「誰か私を、ここから連れ出せ」
呼んでみる。返事はなかった。
「誰か」
姫は、大声を出さないようにと幼少の頃から躾けられている。誰何の声もだから、非常に静かなものだった。
「たれか」
いつも通りに平坦な、と思っているだけで本当にはいささか語尾の震えた、静かな声は、ごうごうという炎、ごうごうという声、その両方にかき消されてしまう。
姫は静かに、傍にあった、祀器であるところの長杖を掴んだ。
りいん、と杖が鳴る。国を生んだ泥沼をかき混ぜたとされる、王位の証の一つだ。古めかしく、しかし水晶や様々の貴石を埋め込んだそれは、世の骨董屋に見せれば、ここ数十年ほどで制作された物だと知れただろう。しかし姫はそんなことは知らない。
りん。
杖が鳴る。姫は静かに杖を揺らし続ける。祀事の常のように。雨を呼び、豊穣を呼ぶ、その儀式の通りに。
あめよふれ、と呟いた。
この、不快な熱い風と、あの、不快な逆賊のわめき声をかき消す、豪雨よふれ。
りんりん。
杖に仕込まれている、金属の球がただ音を立てるばかりだった。
「・・・・だれか」
杖を捨て、姫がもう一度、呼んだ。そのとき。
「姫っ!!!」
がらがらがら、と、激しい音とともに、姫の居室を形作っていた薄い漆喰の壁が壊される。その向こうから、一人の大柄な男が姿を現した。
「姫、姫、ご無事で・・・!!」
遠くまで良く渡る、深い響きの声音に、憶えがあった。
「・・・・なんだ、お前か」
姫はその騎士を見上げて、呟く。先ほど捨てた杖を、億劫そうに拾い上げた。
「熱くてうるさい。あれをとめよ。」
無感動な瞳で騎士に命令を下す。
「あと、見下ろすな。不敬だぞ」
「あのな・・・」
騎士は呟いた。砂埃にまみれ、一部が壊れてはいるが、立派な鎧を身につけていることは分かる。よく鍛えられた体も、鋭いけれども落ち着いた知性を感じさせる眼の光も、全ての人間が賞賛するものだっただろう。
「あと、その衣装は不快だ。泥まみれだぞ。着替えてこい」
「はいはい」
騎士は呟く。そして、姫の体に手を伸ばし、その細い体を抱き上げた。
姫の眉が寄る。
「おい!」
「あとで不敬とかは聞いてやるから。な。行くぞ。」
「待て!」
姫は慌てて振り返る。母の短剣が、所在なげに床に転がっていた。
「あれは要る、持て」
「要らない。行くぞ」
「持てというに!」
がらがら、とまた激しい音。そして恐ろしく濃い、血のにおい。怒号。炎の風。沈黙。血のにおい。

姫はいつの間にか、眠っていたようだった。

「起きなさい」
声がした。布団が固い。まるで床のようだ。
「起きなさい」
二度目の声に、姫は目を開けた。目の前にあるのは、黒い衣を身に纏った老人の姿。
「・・・・・・祭祀長か」
姫はゆっくりと起き上がった。傍らに転がされた杖がりんと鳴る。
「左様。」
黒衣の祭祀長は、姫の元にゆっくりと跪いた。
「女王陛下に於かれましても、まずは無事で何よりかと」
姫は眉根を寄せた。
「女王、とは」
「・・・王陛下も大后様も、太子様もそのほかの王子王女皆、斬首されましたゆえにな。」
祭祀長はゆっくりと顔を上げる。
「あなたが、この国の女王陛下じゃ」
祭祀長の言葉を聞いて、姫の眉根がますます寄せられる。
「私は斎宮だ。王にはなれぬ」
姫はそっぽを向いた。祭祀長が顔をしかめた。
「姫、よくご理解いただきたく思うのですがな・・」
「それより、あれはどうした」
「あれ、とは」
唐突な姫の問いに、祭祀長は首をかしげる。
「私をここまで連れてきた、あれだ」
姫の言葉に、ああ、と得心したらしい。祭祀長はさらりと答える。
「今頃、臨終の際を迎えることかと」
姫の目が見開かれた。
「何?!」
「もとより瀕死の重傷を負っていた。その上、この隠れ宮まで陛下を運ぶとは、下賤の者とはいえ、立派な振る舞いかと」
「馬鹿が!」
姫は立ち上がる。
「あれは何処だ、疾く案内せよ」
斎宮として振る舞うことに慣れつけたその尊大な態度の端に、怯えにも似た感情が、僅かに滲んでいた。
「御意に」
祭祀長はそれに構わなかった。そんなことは、どうでもいいことだった。

敷き布もない地面の上に、騎士は横たえられていた。手当を受けた様子もない。ただ、喉から息だけがひゅうひゅうと漏れていた。
「おい!」
姫が駆け寄る。すると、騎士の濁った目に、うっすらと光が宿った。
「・・・ああ、・・・・起きたのか・・・」
「お前はどうして寝ているのだ、私の御前だぞ、早く立て」
「・・・・無茶ばかり言う」
「うるさい、早く立て」
姫が騎士の隣に膝を突く。血を吸った泥が、姫の絹衣を濡らす。
「汚れるぞ、服が」
「うるさい、私の命が聞けないのか。早く立って、また私に仕えよ」
「・・・・・・」
騎士は目を細める。
「斎宮となられて三年、随分、美しくなられた」
ぎょっと、姫はその身を凍らせる。
「もう、あの離宮に去られて後は、お目にかかることなど、無いかと」
「・・・・・う、・・・うるさい」
「お会いできて良かった」
「うるさい!早く立て、馬鹿もの!」
「・・・女王などになる必要はない。・・静かに、静かな生活を、どうか」
ぷっつりと、騎士の言葉が途切れた。その唇が僅かに震えている。が、うち、それもとまった。
「・・・・おい」
姫が呼ばわる。騎士は応えない。
「・・・・おい?」
姫はすとりと、その場に腰を落とす。ぐずりと、死を吸い込んだ泥が下半身を浸した。
「・・・・逝きましたかな」
祭祀長が現れる。その言葉に、姫はさっと振り返った。
「手当もなしに、何故放置したか。」
「もとより助かる見込みなど御座いませんでした。本来なら、あの離宮までですでに、息絶えていたであろう重傷だったのですから。むしろ、ここまで持ちこたえたことに驚くべきかと」
陛下の顔をみたので、安堵したのですかな、との声に、姫の顔が歪んだ。
「・・・・・ばかが」
呟く。その手がいつまでも、騎士の頬に触れようか触れまいかと迷っていた。
「さて陛下。陛下には、新たな国主として、立っていただかなければなりませぬ」
「・・・・・うるさい」
何時までも姫は、騎士の顔を見つめている。それを見て取って、祭祀長は静かに笑った。
「憎くはありませんかな、父王や母君、そして兄君、姉君、弟君、妹君、そして、・・・その騎士の命をも奪ったあの逆賊どもが。」
ぴくりと、姫の肩が震えた。
「その騎士は、酷い有様で御座いました。拷問でも受けたのでありましょうか。指にある、爪という爪は全て剥がされ、その身に、幾筋もの浅い刀傷と焼きごての跡が・・」
「黙れ!」
姫は短く叫ぶ。そして、ゆっくりと立ち上がり、祭祀長に対面した。
「それでお前は、私に何をしろという」
「それでこそ、陛下」
祭祀長は目の笑わない、奇妙な笑みを浮かべた。
「本来なら、軍を引き連れ、あの逆賊を始末していただくところですが、今回はさすがに、手勢がない」
祭祀長は隠れ宮を振り返った。ほとんど人気はない。元々、無人の宮だ。いま居るのは祭祀長の部下だろうが、それでも数は少なかった。
「そこで、ですが」
「・・・・何だ」
衣を泥で濡らした姫を見下ろして、祭祀長は告げる。
「陛下には、神獣殺しをしていただきたい」
「・・・何だ、それは」
「各地の神殿に祀られている神獣を殺すと、地の支配者の栄光が与えられると伝えられているのですよ」
「・・・・・・・」
「何、神獣といえども、いまや土着の神と融合して、魔物のようなものだ。その」
祭祀長は、騎士の死体を指さす。
「騎士程度の力があれば、楽に葬り去れるでしょう」
「・・・あれは、もう、いない」
姫はゆっくりと呟いた。
「承知しております」
祭祀長は、にやりと笑う。
「ですが、この騎士を使うのです。反魂の術というものがありましてな・・・」


雄叫びが聞こえていた。
厭魅の糧に使われ続けたかつての神獣。いまはただの、腐り落ちてゆくばかりの化け物。そんな化け物が、腐敗した右腕を伸ばす。それを睨み付けながら、姫は小さく呟く。
祭祀長が教えた、王室が在るよりも前に記されたらしい呪法書の最後の頁に記された禁術。それを、死んだ騎士に施した祭祀長は笑っていた。
「良かったですな。まだ、これと別れずに済みそうですぞ。」
ずるずる、と姫の周囲を黒い蛇が舞う。穢れた術のヨリシロにされた王杖がりぃん、と鳴った。
ぎぃん、と、姫の眼前まで迫った腐敗の腕を、分厚い鉄剣が止めた。そのまま、重い腕を横に振り払う。
化け物が吼えた。地平を、生臭い風が吹き抜ける。
その前に、一人の影がある。
姫を守るようにして。大剣を構えるその姿は、上から下までが呪法に染まって黒い。生前には頭の後ろで束ねていた髪が、今は風に翻っている。
騎士は、静かにその場に佇んでいた。
姫はただ、立っている。騎士が半歩動く。そして躊躇なく、地面を蹴った。
化け物が吼える。騎士を叩き潰そうと、地面を打ち据える腕が姫の足をよろめかす。騎士は一向に構わない。怯まず、恐れず、鬼神のように。
右に避ける。左にかわす。剣を、振り上げる。
ぎゃああっあああ、と激しい叫びが上がった。騎士の投擲した剣が、化け物の片眼を貫いて、後頭部から突き出している。
暫くの沈黙。そして。
どう、と音を立てて、化け物は倒れた。
騎士は悠然と歩いて、化け物の頭蓋から鉄剣を引き抜いた。振り返る。
「・・・・・。」
姫はただ、佇んでいる。その姫に騎士は歩み寄り、すう、と泥だらけになった腕を伸ばした。
「やめろ」
姫が小さく呟く。が、騎士の腕はそっと、姫の頭に乗せられた。
幼子を慰めるように。その手は、二、三度動く。
そして、そのまま、騎士の体は崩れた。

死者は生者に触れられぬ。
死者は生者に語らぬ。

死者はただ、動くのみ。


「姫様。」
侍従長に声をかけられたのは、盛暑甚だしい、夕暮れだったかと思う。
「これが、今度より姫様の護衛となります。」
連れられてきたのは、凛々しい顔立ちをした青年だった。とても背が高かった。
「此度は、重要な命を拝謁仕り、・・・」
いかめしい口上を述べようとするその青年を、姫はあっさりと遮った。
「どうせ私は斎宮だ。王権には縁もない。構うな。」
青年の眼が、静かに揺れたのを、憶えている。

それから護衛役となったその青年は、姫の住まう後宮でただひとり在ることを許された男性としても、目に余るほどに姫に付き従った。
姫が読書をするからと追い払えば、では扇で扇ぎましょうとくる。
頁が飛ぶから止めろと言えば、では日傘を持ちましょうとくる。
鬱陶しいからあっちへ行けと言えば、私は護衛ですとくる。
「もういい加減にしろ。」
いつの間にか位を上げ、騎士と呼ばれるようになっていた青年に姫は言い放った。
「閑職に宛てられて、腹が立つのは分かるが、私に嫌がらせをするな。」
「は。」
青年は、首をかしげる。
「嫌がらせなど、した覚えは御座いませんが。」

次なる神獣は、深い洞穴の底に巣くっていた。地の底まで続いていそうな、巨大で深い洞穴。鍾乳石が連なるそこは、暗がりに住まう虫どもの住処でもある。
騎士は一人、洞穴へ潜る。姫はじっと、生臭い風が吹く洞穴の前で待った。
幾時かの沈黙。そして、化け物の奇怪な悲鳴。刃が鳴る音。地響き。
姫は、ただ、王杖を握りしめて待った。一人。洞穴の前で。ぴくりとも動くことはなく。
やがて無音のあと、ずるりずるりと洞穴から這い上がってきた騎士は、自らの千切れた右腕を左手で抱えていた。
そして、洞穴の前で佇む姫の顔を見る。


そして、微笑んだ。



騎士の腕は、布で縛り上げてその位置に合わせれば元の通りに動いた。片腕を布で縛り上げた騎士を連れて、姫は歩く。
鬱蒼と茂る森では、騎士が先へ進み出る。大柄な騎士が通った後の道は歩きやすい。それでも、体力はいつの間にか尽きる。
地面に座り込んだ姫を、騎士はじっと見つめている。いつのまにか、姫に触れようとはしなくなった。
「その腕、痛いのか」
姫は呟く。騎士は少し考えるそぶりを見せ、それから微笑んで首を振る。傷は治ったのだろうか。姫には分からない。姫にも、今の騎士がどのようなモノであるのかは分からなかった。
「支障はないのか。」
聞くと、にこり、と微笑まれた。些かも不安を覚えさせることのない、暖かな笑み。
「なら、いい」
姫は追求を止める。少し空腹だった。持ち出してきた携帯食をかじる。米を煮て乾かしただけのものだ。
がさり、と音がする。顔を上げると、騎士の体が目の前にあった。驚く姫の目の前に、騎士が何かを落として見せる。
熟れた果物だった。
「・・・・・・・・。」
姫は騎士を見上げる。騎士はにこりと笑った。
そして、その体が倒れる。倒れた体が、ぞろぞろと分かれ、分解して地中に潜っていった。
この世のものではない騎士は、長くこの世には留まれない。むしろ、今回はよく保っていた方だった。
「・・・・・・・礼も言わぬうちに、消えるな、と。」
姫は一人呟き、落とされた果実に口をつける。
甘かった。


また、四肢をつなげている。
騎士が一人、自分の体を補修するのを、姫は遠く見守っている。
生者は騎士には触れられないから、じっと見ている。
騎士は姫の視線に振り返る。補修の手を休め、にこりと笑ってみせる。
騎士は、腹に空いた大穴に、土くれを詰め込んだ。

神獣が奇声を張り上げる。身体の半分が汚泥にとろけたような、不定形の魔物。それが、沼のようにずぶずぶと、騎士の身体を飲み込んでいた。
騎士が神獣の核となる心臓を突き刺した。神獣が沸騰したかのような様相で蠢き、蠢き、静かになった。
やがて、神獣の死体であるところの腐った沼から這い出てきた騎士は、下半身のほとんど全部を肉食の虫に食い荒らされたようにして失っていた。

姫の杖に、ナイフで荒々しくつけられている傷跡のようなシルシ。騎士が屠った神獣の数を表している。
いつの間にか、姫は騎士に声を掛けなくなった。


「ふざけるなよお前!」
騎士が本気で、姫を怒鳴りつけた時がある。
「どうせ、私が死んでも同じだろう。斎宮のなり手なんぞ腐るほど居る。」
宴で出された飲み物を、毒味も命じずに飲んだあげくに、生死をさまよった次の日の話だ。
「次に任命される斎宮の護衛役をまたやりたいなら、今からでも後宮司へ下知しておけば、こんど私が死んでも問題ないぞ?」
そんなに斎宮守護が好きならな、と紫色の唇で笑って見せた姫の頬に、騎士の平手打ちが飛んだ。
「ざけんなガキが!!」
姫はぽかんとしている。毒のせいで半身は麻痺しているから、痛くはなかったのだが。
「・・・・・流石に不敬だぞ」
「ざけんな!!!」
騎士は叫んだ。
「俺がどんだけ心配してたと思ってんだ!」
姫は、騎士を見た。
目が真っ赤で。きっと、泣いたのだろう。
掌に刻まれた、爪の形の血の滲んだ傷。どれだけ拳を握りしめれば、あんな風になる?
よく見ると身なりがどことなく汚らしい。姫が寝込んでいた一日の間、身なりにも構わずに走り回ったのか。
そしてその目の下に深く刻まれた、青黒い隈。

「・・・・ごめんなさい」
姫が謝ると、騎士は微笑んでくれた。そっと抱きしめられた腕の中はとても暖かくて、暖かくて。

暖かくて。

やがて起き上がれるようになった姫の前に、騎士は額ずいて誓った。
姫が斎宮へと成り、後宮を離れるそのときまで。その全てを賭して、姫を守ると。
姫は応えた。


最後の神獣が住むというのは、巨大な湖の中心にある祠だった。
周囲にすむ人間が決して近寄らない祠に、姫は一人、足を踏み入れる。
祠の最深部、石棺のようなものが設置されている場所。
その石棺に腰掛けるようにして、それは、居た。
「おまえでさいご」
姫の声に、ゆっくりそれは顔を上げる。
美しい蒼の瞳を持つ、類い稀なる麗人。その裸体は、深い海の色した長い髪が覆い被さり見えないが、女にも、男にも思える。
「死んで」
姫が、杖を構え、呪文を唱える。ぞろぞろと黒い蛇が集まり、人の形をとってゆく。
最後の神獣はそれを見て、ふ、と笑いを漏らした。
黒い騎士が、剣を手にそれに斬りかかる。と、剣は粉々に四散し、雷に打たれたように騎士の動きが止まった。
姫が目を瞠る。その眼前で、ぼろぼろと騎士の姿が崩れていった。土塊で形を整えた下半身がばらばらに砕け、つなぎ合わせた四肢が分解してゆく。
やがて、姫の眼前には、ぼとりと、騎士の首だけが落ちた。
姫はその首へ手を伸ばし、やめる。そして、そのままに神獣を睨み付けた。
あわれな。
水底で聞いたように反響した声が、その耳朶を打つ。
道理に背き、魂魄のながれをせきとめて。
神獣が喋っていた。聖母のような、深い、慈愛の笑みを浮かべている。
その魂は、まるで肉体があるように、痛みも恐怖もそのほかも、そのすべてを感じていたというに、お前は応えることも知らず。
かわいそうな子。かわいそうな子らよ。
姫は、呆然と立ち尽くしている。その眼前に、騎士の首が転がっている。
その首は笑っている。いつものように。優しい笑みを浮かべて。
さて、娘。
神獣が、優しい目で姫を見つめる。
「その男の魂を、もう、解放してやっても良いか?」

いいえ。
私は、彼女を守ると誓ったのです。
この孤独で泣きそうな目をした王女を、我がたった一人の主として、全身全霊を賭して。
彼女は、たったひとりぼっち。
叱りつける声も、抱きしめる腕もない。
それが、あるということすら知らない。
だから私は。
我が肉体が裂かれても、半身が食いちぎられても。
痛みも恐怖も感じない。
彼女を守るために。
彼女の願いを叶えるために。

姫の眼前に、騎士が立っていた。呪いの蛇を全身にまとわらせて、それでほころびた身体の部分を補っている。
それはもはや、騎士ではなく魔物。かつて自らが屠ってきた、神獣と呼ばれていた何かと同じ、腐って淀んで悪臭を放つ、ただの魔物。
騎士が放った突きは、悲しげな慈愛の笑みを浮かべたままの神獣のその首を飛ばし、真っ青な血を溢れさせた。
大地が悲鳴を上げる。大地の母たる最後の神獣の死に恐怖の叫びを上げる。大地にある生命の源たる水はたちまちに蒸発し、神獣の血液が滑った跡は溶岩が撫でたように沸騰した。
神獣の血液を浴びて、新しい神獣=魔物は吼える。ただひとりへの想いをただそのままに、空気をねじ曲げるような、世界を壊すような咆哮を。

そして。
巨大な湖は砂漠と化し、その中心には、神獣となった騎士と姫が二人きり。
砂漠の熱に衣を焼かれた姫は、よろよろと立ち上がる。
神獣となった騎士は、それでもやはり、優しい目のままで、そんな姫をじっと見つめていた。
姫は、手にした杖を握る。そこには、殺した神獣の数が数えられている。全ての神獣を殺すこと。今で、一体増えた。そして、最後に残るのは。
姫は、手にした杖を固く固く握る。
騎士は、優しく微笑んでいる。
そして。




砂漠しかない世界。そんな世界に一つの言い伝え。
誰もたどり着くことが出来ない、砂が吹いてくる砂漠の奥の奥。
そこにはこの世界を砂漠に変えた、地の支配者であるところの魔物の姫が一人で住んでいて、死ぬことも生きることもできずに、死んだ神獣の屍体を抱いて泣いているのだと。
その涙が砂となり、その孤独が風となり、世界をますます乾かしてゆくのだと。
姫の孤独が晴れないかぎり、姫の悲しみが癒えない限り、世界は助からないのだと。
けれど、姫を抱きしめてやれる腕は、永久に失われて、もはや戻らないのだと。

そんな何度目かにあった、終末の物語。

END